病院概要Overview

幸町診療所の創設 ~岡山での透析医療の広がり~

1975年5月1日、岡山市の一角に、初代院長 故國米欣明先生により「幸町診療所」が創設されました。

幸町会館3階から5階に診療所を構えていた当時、透析ベッドは約50床。すべて同じ方向にベッドが配置されており、シャントの左右によって臥床する向きが決められていたようです。週2回透析から、週3回透析が主流となる頃でもありました。入院病床は20床ほどで、大部屋は8人部屋。プライバシーを守るカーテンも、まだ設置されていなかった時代です。

國米先生は、人工臓器と移植外科を専門とし、岡山大学第一外科にて移植免疫の研究に従事。1969年2月、重井病院の重井博理事長よりキール型人工腎臓の無償提供を受け、臨床応用の最前線に立ちます。その後、現在日本の病院で採用されているホロー・ファイバー型人工腎臓の改良に尽力し、日本人の体格に合った市販の基本型を完成させました。さらに1974年には、岡山大学病院における最初の腎移植手術の主治医として成功を収め、翌年には大学講師の職を辞し、腎不全医療への情熱を胸に「幸町診療所(後の腎不全センター幸町記念病院)」を開院しました。

幸町診療所から幸町病院への転換

1987年3月1日、幸町診療所創設から12年。診療所としての役目を終え、さらなる飛躍を遂げる時が訪れました。日中は仕事を続けながら夜間に透析を希望する声や、透析患者さんの外科的合併症への対応など、医療的・社会的ニーズは次第に大きくなってきました。

しかし、診療所としての限られた設備と人員の中、透析ベッドの不足により新規患者さんの受け入れは難しい状態でした。

こうした状況を受けて、幸町診療所は検査・手術部門の設備強化とスタッフ体制の充実を図り、「幸町病院」へと組織変更しました。新たに幸町会館2階フロアを改修し、2階から5階にわたる医療施設として拡充。最大58名が同時に透析可能な血液透析室をはじめ、検査・診療・手術に対応する各種設備を導入し、より高度な医療を提供できる体制を整えました。さらに35床の入院病室を設け、より多くの患者さんの入院にも対応可能となりました。

急を要する透析、重篤な合併症、夜間・休日問わず求められる医療体制を整え、「幸町病院」は、腎不全治療の専門病院として、その使命を胸に新たな一歩を踏み出したのです。

2代目院長 故宮﨑雅史先生就任 「幸町記念病院」へ

1993年5月1日、バトンは次代へ。宮﨑先生が幸町病院を継承し、2代目院長に就任。病院名は「幸町記念病院」へと改められました。

宮﨑先生は1986年に幸町病院の副院長として着任。國米先生のもとで透析を一から学び、当時の研究(膜型血漿交換)にも透析技術を応用しながら、日々研鑽を積みました。その後、一度幸町病院を退職し、1988年済生会西条病院(愛媛県)へ。外科部長・透析室長を歴任。1993年に岡山へ戻り、幸町記念病院の指揮を執ることとなったのです。

現在地へ新築移転に伴い「腎不全センター幸町記念病院」へ改称

2004年11月1日、新たな地で、透析医療のさらなる発展を目指す歩みを始めました。

“FACE TO FACE HOSPITAL 〜患者さんに近い看護をめざして〜”

このコンセプトのもとに、幸町記念病院は大元駅前へ新築移転。週3回、4〜5時間透析治療に通う患者さんにとって「第2の家庭」となれるよう、アットホームな内装や照明を取り入れ快適な環境づくりを目指しました。

  • 患者さんと職員が自然に顔を合わせられるよう、動線をあえて交差するように設計。
  • 1階フロアはラウンジを中心に検査室、薬局、事務所を配置。3方向の出入口からの来院に対応し、職員が患者さんの様子を見守れるよう工夫。
  • ガラス張りの構造や見通しの良いレイアウトにすることで、誰かが倒れても誰かが必ず気付ける「陰のない明るい病院」を追求しました。

そんな宮﨑先生の想いが込められた設計は、患者さんに寄り添い、どんな時も見守りの目が行き届く、信頼と安心の医療環境を実現しました。

移転当時に宮﨑先生が綴った“せせらぎ庭園”への想い

屋外を歩くことは元気のもとです。病院のどこかにリハビリテーションに使える遊歩道を造りたいとは以前から思っていました。今回の病院移転で地下水を透析に使えないかと井戸を掘ったのですが、水質が今ひとつで断念せざるを得ませんでした。これを何とかうまく利用できないかと考え小川に沿った小径のある細長い庭を作ることにしました。

私が小学校に通った昭和30年代、通学路にはあちこちに田んぼや畑があり、帰りはわざとあぜ道を通って遠回りをしたものでした。校歌にも歌われた近くの京山には万成石の石切り場があって、雨上がりには小さな流れや水溜りがあちこちにできて格好の遊び場でした。また母の田舎の谷川で沢蟹やトンボを捕ったことや、旭川の井関の下に湧く澄んだ水、中学校の帰りによく立ち寄った後楽園の曲水、5年間済生会病院でお世話になった伊予西条の湧き水、などなど、水に関する思い出が次々と重なりこの庭園のイメージとなりました。

季節の移り変わりを患者さんや職員の皆さん、そして道行く人々に楽しんでいただければと思います。 (開院当時のパンフレットより抜粋)

公共の場にふさわしい、病院を彩るアートを

大元駅前という公共性の高い場所への建築にあたり、地域に親しまれ、開かれた病院となることを目指し、街の風景に溶け込む彫刻の設置が計画されました。

【風の意志】(寺田武弘 作)

万成石の舞台に、風が吹き抜けた痕跡を刻む作品。風の“意思”が“石”に宿る。

【陽光讃歌】(眞板雅文 作)

鉄の錆色と万成石が溶け合い、太陽の光とともに四季折々の表情を見せる。

【大きな木】(松田重仁 作)

患者さんや職員、病院関係者の皆さんが木のブロックに思い思いの絵を描いた参加型アート。木のブロックに描かれた一人ひとりの夢。一つ一つの夢が集まることで、人々の和が生まれ、それが地域に広がり大きな夢の木として育つことを願い制作される。

三つの“祥”に託した想い 〜医療法人三祥会の設立に寄せて〜

2007年4月1日、病院の経営と存続をより安定的なものとするため、個人病院から医療法人として組織を改編しました。

法人名の三祥会の由来は、まず三祥会の「三」は文字通り数字の3であると同時に、たくさんという意味があります。また、「祥」はよいこと、めでたいことをあらわし、しあわせを意味します。すなわち、三祥会とは三つの幸せを目指す会ということなのですが、これは病院の理念に由来します。

当院の理念は「慢性腎不全を通じて、患者・家族ならびに職員の幸福の増進に永続的に貢献する」ということです。つまり、患者さんとそのご家族ならびに職員の皆さんという三者の幸せを願う、という気持ちをこめて三祥会といたしました。また、この三者に限らず、たとえば患者さんと職員ならびに地域の皆さん、連携医療機関ならびに業者の皆さんでもいいと思います。さらに「三」という字をたくさんと言う意味にとれば、それらのすべてを含むということでも一向にかまわないのです。 (法人設立時の資料より抜粋)

幸町記念病院 院長 宮﨑 雅史

社会医療法人創和会と医療法人三祥会がグループ化へ

2022年11月1日。幸町記念病院の未来を見据え、宮﨑先生は大きな決断を下しました。

幸町記念病院は、長年にわたりしげい病院および重井医学研究所附属病院と深い交流を重ね、強い連携を築いてきました。とりわけ、しげい病院・有元克彦院長と宮﨑先生との絆は特別なものでした。この深いご縁を未来へつなぐべく、社会医療法人創和会とのグループ化を進め、病院の運営権を継承。新体制の第一歩として、重井文博先生が医療法人三祥会の理事長に就任されました。

田中信一郎先生、3代目院長に就任

それはあまりに突然のことでした。2023年8月3日、2代目院長・宮﨑雅史先生、逝去。深い悲しみの中、院長不在となった約半年、職員一同が力を合わせて病院を支え続けました。

2024年4月1日、宮﨑先生の意志を受け継ぎ、田中信一郎先生が3代目院長として就任されます。

田中先生は、岡山医療センターにて腎移植の第一人者として長年活躍。その後、徳島病院院長、福山大学教授として広く医療・教育に貢献されました。さらに、幸町記念病院と田中先生をつなぐ縁は深く、岡山大学第一外科の同門であり、2004年の新病院移転以降、田中先生が理事長を務める岡山県臓器バンクの事務局が病院内に設置されていた歴史があります。そして、しげい病院での透析シャント研修経験を持つ田中先生は、創和会との縁を重んじ、病院の未来を見据えて幸町記念病院の舵取りを担うこととなりました。

つないできた想いとともに、新たな未来へ

そして、2025年10月1日。幸町記念病院は、社会医療法人創和会との正式合併を迎えます。
それは、過去から未来への橋渡しであり、受け継がれる信念の証。
わたしたちはこれからも、腎不全医療の最前線に立ち続けながら、患者さんとそのご家族、職員、地域社会すべての幸せを願い、歩み続けます。

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